No.12 2004年2月25日 大河原 仁

私は東京生まれの東京育ちです。
国民学校2年の時、空襲で家を焼かれました。我が家には、4発の焼夷弾が直撃しましたので、とても消火どころではなく、親に手を引かれ、かろうじて避難するのがやっとでした。
避難の途中、焼夷弾が落下するのを目にしました。暗闇の上空から、無数の火の玉がゆらゆらと落下してきて、途中それが線香花火のようにパッと散ったかと思うと、ヒューという音がして、間もなくタンタンタンと鉄板をたたくような音と共に、火の手が真っ赤に夜空を焦がす様は、今もはっきりと脳裏に刻み付けられています。それは、恐ろしいというよりは、なぜか美しい光景として記憶されています。

家を焼かれ、田舎の無かった私は、四万温泉に集団疎開しました。今でこそ、温泉なんて優雅だね と思われますが。
今思えば、温泉は、集団疎開先としては最悪でした。とにかく山奥では、食料は配給に頼るしかなかったので、食糧事情がとても悪く、皆いつも腹を空かせていました。しかも、宿泊している旅館の裏口では、我々への配給物資が、密かに闇で横流しされているのを、子供たちは知っていました。

ある日、旅館の2階の先生達の部屋から、とても美味しそうな良い匂いが漂ってきました。だれかが偵察に行くと、なんと先生達が天婦羅を揚げて食べているとのこと。これを知って憤った上級生達が、子供達を扇動し先頭に立って、先生達のところへ抗議に押しかけました。最下級生だった私も、みなの後ろから付いて行き、その情景を目にしましたが、上級生達の抗議に、教頭先生が素直に謝ったのが今でも印象に残っています。

あのような時代、子供といえども必死にならざる得なかったこと、そして、先生達も一瞬の寛ぎを得たかったのでしょうが、素直に謝ったのは立派だったな、と今にして思うのです。
私も、知らぬ間に、こんな戦争の想い出を記憶している最後の世代になってしまいました。

さて、前置きの話が長くなりました。

「SITA」との出会いですが、定年退職を前に他の資格試験に挑戦していたのですが、ネット上で偶然「SITA試験」を知り、何気なく受験したのが2年前、その後「さいたネット」へのお誘いを受け、会員にさせていただきました。
「さいたネット」のお誘いを受けたとき、てっきり「埼玉のSITA」の会と思い込み、「埼玉県に隣接する板橋区に住んでおります」なんて、メールしたのは汗顔の至りです。

「さいたネット」については、元木さんの「基本は 親睦と交流を柱にして それから 枝葉ができれば いいのではないかな…」というご意見など諸々に賛同します。とにかく、会員の方が、気楽に話し合える場を作り出すことが必要だと思います。
「さいた歳時記」の企画も、とてもよいと思います。皆さんが、いろいろなことを発信してくれると楽しいと思いますね。